世阿弥という人が「ときによりて、用足るものをばよき物とし、用足らぬものを悪しき物とす」ということを言っています。現代くらい各々の自我とか自負が
大きくなると、誰が何をやっても文句なんて言えやしないですし、そういう状況を無責任にでも奨励する方が、なんか柔軟でスケールのでかい大人を気取れたり
もいたします。
しかし、その自負が「用足るもの」に達するほどに自分を深く追求している者はやはり僅かなんだと思います。「自分探し」程度の追求をあっちこっちでやれ
ばやるほど、何が「用足るよき物」なのやら、ますます混乱してゆくことでしょう。
でも心配には及びません、世阿弥は「あまねき好みによりて取り出す風体、これ、用足るための花なるべし」と言っております。つまり、その判断はその時代
の観客の好むところにあると言っているわけです。もっと言えば、みんなが普通に良いと感じる物がやはり一番いいもので、アーティスト気取りとか評論家とか
の頭の中に美があるわけではないということです。
絵だけで生活することが「絵描きになる」ことでもないように感じています。かつてボリス・ヴィアンが「精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるも
のではない。それがいやなら他の仕事をすることだ」ということを言っていて、それを読んだ当時20代だった僕はまさにその通りだと思っていました。30を
過ぎて、絵を買ってもらう機会もそこそこ増えて来て、それで考えが変わったかというと、なかなかそうでもありません。絵で生計を立てようと思えば、確実に
売れる物をある程度の単価でコンスタントに生産してゆくことが必要になります。こうなれば芸術なんて呑気な事は言っていられません。粗製濫造がいやなら単
価を上げるしかないわけですが、例え何十万、何百万で売れる大先生になったとしても、普通に絵の好きな人の手の届かない代物になるのは何かいやです。
とまあ、こんなことをずっと考えていても未だに着地点はわからないままなんですが、重要なのは自分が一番大切にしたいところを見失わず、そこを始点に他
の事を決める事だと思っています。いい絵を突き詰める為に絵商売が不要なら捨ててもいいし、労働が必要ならすればよい。絵をいろんな人に観て喜んでもらう
為に、人をよく見極めて、厚意には感謝し、信用ならないお膳立てには舌を出せば良い。
こればかりは自由すぎてお手本のいない道なので、自分の脚でしっかり歩いて行くほかありません
今年の4月頃から、30号の絵を描いています。
震災をテーマに絵を描くようなつもりはなかったですし、ただ無心に自分の絵を描くまでだと思っていたんですが、どうも心理的に何の影響も受けないわけに
はゆかないのかも知れません。
昨年辺りから漠然と「大量の水をたたえたダム湖の風景」を描きたいと思っていて、そのつもりでパネルを買って来て水張りまでしたんですが、いざ描こうと
思った瞬間に何を血迷ったか「人体の図をかこう」と突然に決めて描き始めてしまいました。
そして絵が出来上がってゆくうちに、昔読んですっかり忘れていた谷崎の『少将滋幹の母』にでてくる「不浄観(ざっくり言うと、野ざらしにされた亡骸が朽
ちてゆくのを眺めて、自らの肉体も世の中も不浄のものであると悟る、みたいな仏教の修行法)」の話がぼんやり甦ってきました。
▲現在描いている絵(一部)
もちろんこれが「時勢をとらえた立派なアートだ」とかぬかす気はさらさらないんですが、どうも自分の中でグロテスクなイ
メージばかりがでてきて仕様がありません。震災後に芸術がすべきことがチャリティーをはじめとした「ヒューマニスムの伝導」みたいなことばかりにいってる
のは僕にはしっくり来ません。そういうのは企業やもっと立派な人格の皆さんがやってくれるはずで(皮肉ではなく)、芸術なんかに現をぬかしている僕らは
もっと人間の持つ汚い所を 突き詰めていかなくちゃしょうがないんじゃないかと思う訳です。
所詮は絵に過ぎないと言っても、ただの絵空事で人の心が動くものではありません。頭の先っちょばかりが動く生活をしていると、描く絵までぼんやりとして
くるような気がします。視覚的な「かたち」として対象をとらえたり表したりするのが「絵描きの力」というもので、そこをおろそかにはできないと改めて感じ
ています。
これは写実画や具象画に限ったことではなく、抽象的な表現であっても同じで、構造をゴリッと手で掴んだような強い視覚に支えられた絵は、どんな訳の分か
らないような絵でも、消え入るような繊細な絵でも、はっきりと良く見えます。
イメージの源泉になるような強い体験を持たない現代の絵描きは、どうも苦し紛れに些細な個人的体験を大袈裟に作品化してみたり、テレビやマンガ、映画で
見たようなうろ覚えのイメージをそのまま引っ張り出してしまいがちで、その結果として迫る所の無い弱い表現が生まれてしまうのではないかと感じています。
その至らないぼんやり感を「現代性の象徴だ」みたいに過大評価してしまうのは時代的錯覚というものですし、かといってただの写実まで時代を引き戻してしま
う必要も無いと思います。この現代を「力強い絵描きの眼」で生きて表現していけたら、はじめて後世に残る現代の絵が生まれるんじゃないかと思っています。
絵でも写真でも現実の風景でも、調和を超えた一種の破綻のようなものにドキリとさせられることがあります。そういうのを勝手に空間のほつれとか裂け目と
か呼んでみます。これらは隠し味のようなもので、一見しただけですぐ主張してくるものではなく、まずはちょっとした違和感として残る気がします。その残り
香を反芻してたどってゆくと、はたとその正体に気付くことがあります。
この茶碗を没頭して描いている時に、その逆の流れのような現象が起きて、最後に茶碗ごと空間をパキリと裂くイメージが湧いて、そこで絵が決着した気がし
ました。このビビによって絵画の平面性、虚構性を強調を意図した、ということではなく、このビビに一種の重量感と言うか生命感のようなものさえ感じるほど
の強さで、ハッキリとそこにたち現れて見えたんです。
▲この絵の首筋のニョロッとした髪にも同じ感じがあるように思います
「気がした気がした」と根拠のない寝言みたいなことばかり書きましたが、頭より眼の方がよっぽど出来が良いのが絵描き
じゃないかとも思うので、なんとなく解ってもらえたら嬉しく思います。
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