2009年6月7日 やや大きい作 品、制作開始

僕は基本的に大 きいペン画を描きません。理由はいろいろあって
@普段からクロッキー帳を持ち歩いて、喫茶店の隅っこで絵を描いてるため。
A僕のタッチの密度で大きいのをやろうとすると、線を引く楽しさが、
 空間を埋めるための作業になりそうで
 気が滅入るため。
Bスピード感が損なわれ、考え込んでしまうため。
C体力の限界!
などです。

 

 もちろん巨大な作品の力も知っていますが、例えば僕の描いたペン画が超巨大で、観た人にものすごいインパクトを与えたとしても、なんか僕の望むのと違う 解釈になってしまうよなあ、と感じます。僕はあくまで、線の一本一本の細部、あるいは線にすらなっていない引掻き傷にまでわけいって欲しいのです。

 今やってるのは木炭紙サイズくらいで、A6のクロッキー帳の落書きからスタートした僕のペン画にとっては、思えば遠くへ来たもんだ、って感じです。A6 サイズでの即興性や瞬発力は失速しますが、瞼の膨らみや、睫毛一本のしなやかな流れにまで気持ちを込めることが出来るようになりました。
 大きいのがいいとか小さいのがいいとか決め付けるのではなく、きっと、表現に適したサイズというものがあるのだろうなと感じるわけです。



 2009年6月21日 ボールペンについて

 細密に絵を描く方法は、版画だったりテンペラ画だったりといろいろありますし、鉛筆を使えば消したりぼかしたりもできます。んで、じゃなんでボールペン かとなってくると、どーやらシンプルさが僕の中では重要になってくるようです。
 ボールペンの特権は、インクが切れるまでひたすら「描き続けられる」ことです。そして手の動きがそのまんま絵肌になってゆくことです。また修正が利かな いからこそ迷いが消えて「もう進むしかない!」となります。

 以前はこのスリリングさをジャズのアドリブのように捉えてギリギリのバランスを楽しんでいたのですが、最近では、逆にのってくると「空っぽ」に近い状態 になっていきます。静かな絵との対話のようなものが始まって、絵が心地よいとうったえかけてくるところに「どうぞ」と線をおくわけです。
 なんて言うと、植物に話しかけてる頭のおかしい人みたいですが、要するに自分のDNAに刻まれた太古からの美の記憶を、可能な限り不純物を取り除いて抽 出しようとゆう試みなんです。






 ま、ただあんまり美の世界だけに突き進むと、「帰って来れなく」なるおそれがあるので、気をつけようと思います。
何かを捨てて何かだけにいってしまった表現は、どーにも魅力を失いますからねー。




 2009年7月2日 抽象性について

 抽象画か具象画かということは今さら問題ではないですが、僕の中で抽象性を持たない表現をあんまし信用してません。

 人間個性的になればなるほど、カラーというものが消えて「ただの存在」に近づくような気がしてます。この漂う抽象的な存在を核にして、たまたま具体的な 何かが結晶を結ぶのだと思います。そしてこの核を持つ表現は、何を描こうと、何をまとおうと、その人の気持ちが伝わってきて、感動するんです。
 また逆にそれを大事にしてない表現を前にすると、どんなにもっともらしいメッセージや優れた技術があっても、「嘘だ〜」と思ってしまうんです。



▲最近は具象画と並行して、抽象世界でも遊んでいます。(個展でも展示した「雨のリズム」)


 昨年ハンマースホイを観たとき、完全にただの具象画でありながら、目の前の記号を通過して、その奥に閉じ 込められたきっと彼が永遠に刻みたかったであろう時空に連れてゆかれました。
 言葉で説明できることは、伝えるには手っ取り早くて一見説得力もありますが、絵描きが抽象的な「表現して伝えたい漠然としたなんか」みたいなのを信じな くなったらお終いな気がします。

 僕もようやく、絵描きとしてそういうのを誤魔化さず大事に出来る程度には自信がついてきました。表現の志はまだまだはるか上にあるわけですが、とにかく 歩いてゆこうと思うわけです。




 2009年7月12日 ある風景

最近A6サイズのクロッキー帳で絵を描いてなかったので、気分転換に始めてみました。
通勤電車で白洲正子の西行を文庫で読んでいたのですが、たまに挿入されてる旧跡の小さな小さなモノクロ写真が、とても想像力を掻き立ててくれるのです。そ んな中のひとつに、古い森を前にした鳥居の写真がありました。
 学生時代、夜中によく八王子の山の方を散歩して物思いに耽っていたのですが、あるとき、完全に道に迷った挙げ句、真っ暗闇から古びた鳥居が目の前にふ わっと現れて、恐怖で失禁しそうになりました。
そんな個人的な記憶もからめつつ、森と鳥居の風景を描いてみました。

 
田園だとか街の中に唐突に森が残っている風景が、個人的になんかドキリとします。

 僕は東京生まれでもヒップホップ育ちでもなく、悪そーな奴はだいたい避けて通る長野県生まれです。中学生 時代には学校の行事で強制的に3000メートル級の霊山に登らされたりもします。(しかも地元の中学生が、かつて同行事で集団遭難、死亡したエピュソード を教訓(脅し?)として聞かされた上で行くんです)
 そんな自然への恐怖の記憶がこの絵には込められているかもしれません。





 2009年8月1日  額装と表装について

 ずっと喰わず嫌いな感じで絵を額に入れるのがイヤで、最初の頃はそのまま壁に貼付けて展示したりしてました。最近ではそれもさすがに品がないなあと思う ようになり、昨年の夏、初めてきちんと額に入れて展示をしてみました。
 すると、絵の力がぐっと凝縮されて強まり、物質的にも重厚になって、これが額装の力かあ、と目から鱗がこぼれました。


▲昨年のこぐまさんでの展示風景。落ち着いた色合いの木棚と額に収まった絵が、
 いい緊張感を生み出しています。



 しかし、自宅に飾ってみると、額縁とガラスに覆われた絵とお部屋がなんか断絶してる感じがして、なんかカッチリしすぎるんだよなあ、と思ってたんです。

 そんなおり、大きめの絵をふすまにペタリと貼付けて描いてたら、なんかふすまと絵が妙に響き合っることに気がついて、しかも絵の中から女性が貞子みたく 外に出てきそうで、「ふすま絵みたいなことできたらいいなあ」と思うようになりました。
 さらにそんなさなか白洲正子の本に「西洋の額は作品を閉じ込める為のものであり、日本の表装は外に開くためのものである」みたいなことが書いてあるのを 見つけて、日本人というのはとっくの大昔にそんな問題は解決していて、だから大和絵は表装してあるんだなあ、とたまげた訳です。


▲思い立ったが吉日。早速簡単な色紙用の掛け軸に飾ってみました。
 専門的な知識が必要みたいですが、本当はちゃんと表装できたらいいなと思います。


 今年はじめの個展の時、繊細な紙という素材故に湿度でうねったり、画面が汚れてたりしていることについて、賛否両論ありました。僕は繊細な素材の危うさ や、人の手て描くことで生まれる汚れや染みは愛すべきものだと思ってるんですが、展示作品が額にキッチリ収まっていたことで、工業製品のように捉えられて しまったのではないか、とも感じます。もし紙が紙として目の前にあれば、自然にその味わいを感じられるのではないでしょうか。
 
 と、まあそんなわけで、とりあえず来年の三月に個展が決まりましたので、ひょっとしたら表装された作品が、僕の資本金の許す範囲で飾られるかもしれませ ん。。。





 2009年8月27日

 亀の歩みで刻み続けた絵が、ようやくかたちをなしました。












 僕のような細密な表現の場合、絵があまり大きくなると、
その表現の繊細さや美しさよりも、かかった労力が凄いだけの「頑張ったで賞」に陥るような気がするんですが、
今回はじめて挑戦した大きさでは、ただの細かい線の集積ではなく、
線一本一本がそのままを絵の質となって、不思議な生命感を生み出せたように感じています。

 もちろん、まだまだいろんなものが自分には足りない気もするんですが、
それでも、好きなようにこだわって絵が描ける事は、とても幸せなことだと思うのです。

 そして、せっかくですから実物を見ていただく機会を設けたいとも思うのですが、
とりあえず本作は某絵画の公募展に出してみることにしました。
 目の肥えた審査員にこの娘がどう映るものか、これはなかなか楽しみです。





 2009年9月2日 絵の描きはじめ

 僕にとってはいつものことですが、白紙から下描きなしのインスピレーションまかせで描いているので、
描きはじめがあまりかっこいいもんじゃありません。
一体どんな完成形を描き出すのか、自分にもわかりませんし、うまくいく保障もありません。





 なんでこんな博打みたいな描き方をするかというと、まあ、性にあってるからだと思います。

 計画をしっかり練って、写真資料なんかもバッチリ用意して、
んで最終的に作品の完璧度が増したとしても、
そんなレール通りの奴隷みたいな作業はやだなあ、と僕なんかは思うわけです。

 ところで、不思議とこのやり方で失敗した〜!と投げ出したことがありません。
これは僕の未熟さ故かもしれませんが、自分が最初や途中で想定してるイメージなんて
だいたい当てになんなくて、「失敗かな」とかそんなしょぼい見切りは気にしないで、
ちゃんと手を動かしていけば、好きな作品に仕上がってゆくことを知っているからです。

 自分が気持ちを注ぐことを怠って放棄して、
作品を出来損ない呼ばわりしてはいかんと思うんです。

 描き始めたばかりの新作、関わってしまったからには一人前に育てたいと思います。





 2009年11月1日 鑑賞者に、たちかえる

 絵描きも評論家も画商も、元々はただ絵が見ることが好きだったんだと思うのですが、
その道で一丁前になってくると、職業的な眼で判断してわかったつもりになってしまいます。

自分について思い返すと、そもそも絵描きなんて自分事で精一杯の垢抜けない人間が、
ついに観念してなってしまうもののような気がしていて、
だから人様の作品や想いに対して、とても鈍感なわけです。

人の絵を観ても、技法がどうだの、構図どうだの、色がどうしたの、発想がおもしろいだの、
そんな話はできても、素朴に感じたことが言えなくなっているんです。
経験からでてくる言葉が邪魔をして、絵を絵として感じとるゆとりがないんです。

最近ではそのことに自覚的になっているので、
絵を見るときには、まず呼吸を落ち着けて、頭を真っ白にして、
体全体で絵を浴びるように感じます。
いい絵をじっと観ていると、ふっと何かがよぎって、
それを捕まえては、言葉にします。
きっとそれが作者の感じていた世界なのだと思うからです。


これが今の僕なりに至った見方です。
自分が鑑賞者にたちかえると、自分の絵が少し客観的に見えてきます。
美を押し付けたり説明するのではなく、
信じて託すことができたらいいなと思っています。





 2009 年11月16日 美と、ヒューモアと、確かな技巧

どれか一つにいってしまうのは容易なことですが、どれをも捨てられないのが芸術らしさです。
何かは何かの足を引っ張るわけですが、だからといって一方を切り捨てて抜きん出たところで、
ただ速いのが一番のかけっこと変わりありません。

芸術なんて不確かなものに、自分なりに試行錯誤して、ようやく足場を築きます。
その危うい足場を確かめるために、自らハンマーを振り上げて、足元をぶっ叩きます。
ひっくり返って頭をぶつけて、その偏りに気付きます。


自惚れというには百年早い、自己愛に満ちたふわふわした絵を最近よく見かけます。
いい絵を見たくて、できれば好きになりたい僕は、途方にくれてしゅんとするばかりです。
芸術は自己啓発セミナーでも病棟でもなく、筋の通った健康な「人でなし」たちが、
堂々としのぎを削り、何かを愛し、美を追求する場です。

美しくも無く、ヒューモアも感じず、技巧も至らない絵がよく見えだしたら、
一度ハンマーで頭でも叩いて我にかえりましょう。



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